今日はパウロ書簡でももっともなじみ深い「愛の賛歌」が聖書日課です。教会はキリストの体であり、体の一部分を構成している一人一人の教会員はさまざまな独自なカリスマを与えられているとパウロは語ります。
 第一に使徒、次に預言者です。預言者は神の言葉を語る人ですから、宣教者のことです。次に教師、教師は使徒たちや預言者たちの言葉によって回心した人々を、信仰的に育てていく責任を持つ人です。
 ついで奇跡を行う人、病気を癒す人、教会の実務者も挙がっています。援助する者は、孤児や貧しい人などの生活の面倒を見る仕事をしました。教会の管理者は宣教者の働きを支えるものですから、パウロは管理するというのに船の舵を取るという言葉を使っています。教会を構成する人々はこのようなさまざまな賜物、カリスマを用いて神のために働くのですが、相異なる賜物を生かしあう最高の賜物、愛についてパウロは語り続けます。彼はまず、人がどんな賜物を持っていても、それに愛が伴わないならば、その賜物は無に等しいと言います。

              
『愛は忍耐強い。
               
愛は情け深い。ねたまない。
               
愛は自慢せず、高ぶらない。
               
礼を失せず、自分の利益を求めず、
               
 いらだたず、恨みを抱かない。
               
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
               
すべてを忍び、すべてを信じ、
               
 すべてを望み、すべてに耐える。

 この愛の賛歌の主格はどういう存在でしょうか。とても普通の人間ではあり得ませんね。。
 忍耐強くも情け深くもない私たちを、忍耐強く、情け深く扱って下さる神のことを言っているのです。愛のところに神を入れて読んで見るとよく分かります。愛は自然に感情のままに任せるものではなく、神に愛されている者同士、互い愛し合いなさいと命じられているものです。愛の意志を持って向かい合いなさいと言うのが神とパウロの命令なのです。自然のままなら、それはパウロの言う、肉に従う、サルクスの枠の中で生きることですね。肉ではなく、霊に従って生きるようにと言うのが、パウロの一貫している教えです。

                               


コリントの信徒への手紙T12章27〜13章13節
愛の意思
2002年 9月 1日